昭和46年度インターハイ レポート

 高校スポーツの「花園」は、なんと言っても全国高等学校体育大会(インターハイ)だろう。私は幸運にもその花園に足を踏み入れることができた。昭和46年度のインターハイ。山岳部門に参加した。会場は四国・徳島県の剣山である。

鈴木英二郎(昭和48年卒)

宮城県の代表に選出

 我々(私を含め四人)のパーティは、宮城県大会山岳部門の予選で県の代表に選ばれた。約40校の中からただ1校選ばれたのである。それが決まった瞬間は狐につままれたような気がし、本当に俺たちなのだろうかと、嬉しさより先に、口を開け涎が垂れるままにしておくような、また、心臓が「ホントニカ、ホントニカ」と脈打っていた感じを覚えている

 その発表の前夜、キャンプファイヤーが終わって総体やインターハイの代表について部内で色々と話し合った。我々インターハイ出場を目標としていた者にとっては砂を噛むような話し合いであった。代表に選ばれても皆に祝福されていない、むしろ軽蔑されているような気持ちがして鉛のように心が重かった。

 それでも「四国に行ける」という気持ちがそうさせたのか、あるいは「俺たちは県の…」ということがそうさせたのか(誰が私をそうさせた?)、「とにかく頑張らなくちゃ」ということをサザエの脳味噌のようなところにある私の心の声帯が、カニが泡を吹き出すようにつぶやいていたのである。

2回の強化合宿

 大会に参加しても恥ずかしくないようにというためなのか、それとも良い成績をとってもらいたいためなのか。インターハイ出場パーティの強化合宿が2回行われた。1回目は、仙台〜かもしか温泉〜熊野岳〜刈田岳〜白石〜仙台、というコースの蔵王登山、2回目は、仙台〜二口渓谷〜大東岳〜二口渓谷〜仙台、というコースの大東岳登山だった。

 2回とも雨に祟られはしたものの、充実した山行ができたと思っている。テントの張り方でも、山に入っての生活でも、行動でも、メンバーシップでも、今まで非合理的だったものが、仮面ライダーの変身のようには素早くできなかったにしろ、随分合理化された。それには宮城県の総監督をされた渡辺先生のご指導を受け、しごかれ、嫌味を言われるなどしたからであったけれども。その時に、インターハイに関していろいろなお話をしていただいた。装備のこと、服装のこと、色々な工夫や暑さへの対処法などについてである。

 この合宿での雨は、私の「本当に四国に行くんだろうか?」と言う疑惑の垢をすんなりと流してくれた。それによって「やはり本当に行くんだ」という気持ちが、まるで日焼け後に新しい肌が下から現れてくるように現れてきたのである。

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