スポーツとしての登山は、19世紀中頃のイギリス山岳会の創設をきっかけにスタート。日本では明治38年に日本山岳会が創設されます。宮城県では槇有恒氏(仙台市生まれ。後の日本山岳会会長・マナスル登山隊長)が明治末期の中学生時代から登山活動を始めました。
気仙沼における登山史の主な出来事は、以下の通りです。
【昭和12年3月】フジヤ運動具店主の発起で山岳クラブが結成。会員は20余名、顧問は館山警察署長と新妻判事、部長は関仁、副部長は次藤静馬、他に幹事5名。
【昭和22年】町の山岳・スキー愛好者が発起人になって気仙沼山岳会を結成。
【昭和23年頃】気仙沼高校に山岳同好会が発足。
【昭和25年頃】永沢正一郎(魚町二丁目・永沢玩具店主)、紺野永吉(南町二丁目・明昭堂書店主)、佐藤吉太郎(三日町一丁目・佐藤靴店主)、佐川金蔵(八日町二丁目・佐川洋服店主)、次藤静馬(南町二丁目・フジヤ運動具店主)の各氏が 「気仙沼山岳会」を結成し、栗駒山、五葉山、早池峰山、蔵王山に登山。
【昭和30年】千葉賢二氏(唐桑)、谷山友夫氏(九条)の呼びかけをきっかけに、気仙沼高校山岳同好会OBが中心となって「彼峰の会」を結成。初代会長は谷山氏。会員数約二十名で発足したが、後に一般山岳愛好者も加入。
【昭和31年1月1日】「気仙沼山岳会」が組織を整えて正式発足。事務所は気仙沼市役所山岳部内に。
【昭和31年頃】気仙沼高校山岳同好会が山岳部に。
【昭和32年5月】第一回太田大森高原開き
【昭和32年秋】熊山に山小屋(黒森山小屋)が完成。
【昭和37年】彼峰の会が焼石岳の詳細な調査を実施し書籍として刊行。「山と渓谷社」から受賞。
【昭和38年4月1日】登山を通じて技術の指導、登山道徳の啓蒙活動、自然保護運動の推進などを目的に、富川浩、石川忠政、尾形雄三郎、村上紘一の各氏らが「気仙沼山の会」を創立。富川浩(産婦人科医院長)氏が会長に就任。
【昭和40年4月26日】気仙沼山岳会を発展的に解消し、彼峰の会、気仙沼山の会、気仙沼市役所山岳部で連絡会議を開き、山岳会として再編成。彼峰の会会長に小野寺寅雄氏が就任。
【昭和40年】槇有恒氏が来市。伊達篤郎宮城県山岳連盟会長の案内で大島や唐桑を巡る。
【昭和46年8月】徳島県で開催された全国高等学校総合体育大会において、気仙沼高校山岳部が優秀校に。
【昭和47年】彼峰の会主催の市民ハイキングとして、焼石岳や早池峰山登山を始める。
【昭和48年11月23日】伊達篤郎宮城県山岳連盟会長とともに、菊池俊一、小野寺盛栄、菅原雅、千葉貫二、菅野仙多、太田幸広、小山幹、相沢礼子の各氏らが五葉山登山。前夜からの大雪で遭難しかける。
【昭和52年9月】宮城県山岳連盟指導者岩登り研修会を、気仙沼山の会主管により唐桑半島で開催。
【昭和53年】気仙沼山の会会長に小山幹氏が就任。
【昭和59年7月】全国自然公園大会が市内大島会場で開催され、宮城県内の岳人29名が参加。
【平成8年7月】日本山岳協会主催の全国岩登り講習会が唐桑半島の岩場で開催され、全国から30数名が参加。
※「気仙沼市史 補遺編 スポーツ」より抜粋し編集